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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【憶念弥陀仏本願〜応報大悲弘誓恩】全文現代語訳

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現代語訳

阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずからただちに正定聚しょうじょうじゅに入る。ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよいと述べられた。

この度は、正信偈「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如号 応報大悲弘誓恩」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

憶念おくねん・・・胸に忘れないこと

自然じねん・・・仏教では「じねん」と読む。仏からのはたらき、人間のはたらきではない意味を表す。

必定ひつじょう・・・必ず滅度めつどに至ることに定まること。正定聚や不退転ともいう。

如来号にょらいごう・・・南無阿弥陀仏のこと。これを6字名号という。

大悲だいひ・・・慈悲の三縁さんえん、中悲や小悲に対して仏の慈悲を表す。

簡単な念仏を勧められているけれど、修行っぽいことを1つでも何かしなさいって言われると、安心して過ごしやすいんだけどね
何か1つでもすることを決めたら、出来なくなった時に苦しむのが自分なんだ。
そうか。何か1つでも条件があったら、出来なくなった時に辛いね。念仏だけしときます。

正信偈の原文

憶念弥陀仏本願
おくねんみだぶつほんがん
自然即時入必定
じねんそくじにゅうひつじょう
唯能常称如来号
ゆいのうじょうしょうょらいごう
応報大悲弘誓恩
おうほうだいひぐぜいおん

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】弥陀仏の本願を憶念すれば自然に即の時必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり

【現代語訳】阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずからただちに正定聚に入る。ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよいと述べられた。

正信偈の分かりやすい解説

易行道の勧め

龍樹りゅうじゅ菩薩は仏道の歩みには、「難行道なんぎょうどう」と「易行道いぎょうどう」とがあることを明らかにされ、2つ道があり私たちに選ばせるのではなく「難行道」は苦しい道であり凡夫には不可能な道であることを示し、「易行道」は楽しい道であることを明らかにされ、私たちに「易行道」を勧められました。

菩薩である龍樹菩薩が示されたのは、自分の力をたよりにして困難な修行に励む聖道門しょうどうもん(難行道)の教えは、苦しみに耐えながら険しい陸路を進むようなものだと教えられました。一方、阿弥陀如来の本願におまかせして、阿弥陀仏の浄土に導いていただくとする浄土門じょうどもん(易行道)の教えは、船に身をゆだねて水路を進むようなものだと教えられました。

厳しい自力の修行は、真面目で誠実そうに見えますが、誰にもできる修行ではありません。できないことをやり抜こうとするとき、そこには自己過信の心がはたらきます。つまり憍慢まんしんの心です。自分を見失った姿といえます。

自分の日頃の行いを思い返してみると、そこには真面目で誠実な心というよりも、心の中では人様には見せられない自分自身に気付かされます。そんな身勝手な私の力では悟りをひらくことなど到底できません。陸路といっても、身勝手な者には、決してたどり着くことが出来ない(悟りの)道です。唯一、この世で悟りを開いたお釈迦様のみが到達できるものなのです。そのような道を私が歩める訳がありません。

しかし、そのような苦しみ迷っている人こそ、何とか浄土に迎え入れたいと願われたのが阿弥陀様です。自分なりに険しい陸路を進もうとしても、邪念じゃねんを払いのけられない自分は、結局は船に乗せてもらって水路を行くしか道はないのです。だから龍樹菩薩は「難行」と「易行」の2つの道を私たちに選ばせたのではなく、「易行」を勧められた菩薩様なのです。

「本願」とは「本当の願い」(すべての者が救われる)ということで、私たちには思いも及ばない遠い昔からはたらき続けている「願い」です。

インド
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憶念と自然と即時とは

憶念おくねん」とは、「憶」は心にたしかに保つこと(憶持おくじ)、「念」ははっきりと覚えて忘れないこと(明記不忘めいきふぼう)です。信心の明確性と持続性とを示す言葉で、本願のことを頭で理解しなければ救われないという条件ではなく、そのような願いがはたらいている事実に身を委ねるということです。抗わないという事です。

「自然」とは「じねん」と読みます。一般的に「しぜん」と読みますが、仏教では濁音で「じねん」と読みます。意味は「仏さまはたらき」、人間の思慮しりょ・知識や経験から理解できるはたらきを超え優れたはたらきです。水が上から下に自然と落ちるように、そこには水のはからいは一切必要ではありません。それは自然と落ちるように、苦しみ悩む凡夫は阿弥陀様の救いの目当てであり「必ず救う、我にまかせよ」とはたらいてくださっています。だから、私たちは自然不思議のはたらきで、資質や条件一切関係なく救われていくと親鸞聖人は記されています。

「即の時」とあるのは「ただちに」という意味です。「必定ひつじょう」は「正定聚しょうじょうじゅ」また「正しく浄土に往生することが定まり、必ず悟りをひらくことができる仲間となる」ということで、「正定しょうじょう」(まさしく定まる)と言われます。阿弥陀仏の本願は「必ず救う、我に任せよ」と私に向けてはたらいておられますが、いつも心にとどめて(憶持おくじ)忘れずお念仏を申して(不忘)いる私、つまりご信心を賜った私は、浄土往生はもうすでに決定したことになると龍樹菩薩は明らかにされました。

報ずるとは

では、阿弥陀様の御本願に気づき念仏するようになった私は、どのように過ごすべきなのかを龍樹菩薩はお示しくださっています。それが「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」(ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし)と「正信偈」には表されています。

ただ何度も何度もお念仏を称えるほかはないということ、阿弥陀様から届けられているお心を受け止め、努めて念仏しなさいという事が「報ずべし」という事です。

私たちは偶然にも仏教に出遇い、阿弥陀如来の御本願を聞かせて頂くようになり、また「南無阿弥陀仏」とお念仏を口にするようになりました。それは、私が仏教に出遇い、賢くなったからお念仏を申す身になったのではありません。救われ難い私を「必ず助けたい」と願われる阿弥陀如来の大慈大悲のはたらきに、いま護られているからお念仏を申す身にお育て頂いているのです。その上は、ご恩に報謝することこそ念仏者の生き方です。感謝の思いを保ちながら念仏しなさいと、龍樹菩薩は勧めています。

親鸞聖人は晩年に『正像末和讃』をお書きくださいました。その中でもっとも有名な言葉が「恩徳讃」として歌われる

正像末和讃

如来大悲の恩徳おんどくは 身をにしてもほうずべし 師主知識ししゅちしきの恩徳も骨を砕きてもしゃすべし

とあります。たとえ身を粉にしても感謝しきれないものを阿弥陀様から頂いた。返しても返しきれないほどのご恩を喜び、今の私はあるということです。親鸞聖人が『正像末和讃』を書かれたのがおよそ86歳です。賢くなって浄土往生を喜ばれた方ではありません。晩年になるまでずっと、ただ阿弥陀様のご恩深きことを喜び、確かに救ってくださるそのはたらきを、お喜びになられたお方でありました。そして今なお、その姿はたくらんの事を私たちに教えてくれます。

 

正信偈の出拠

『教行信証』願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。

『易行品』もし人われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得

『大智度論』第一に仏はこれ無上法王にして、菩薩は法臣たり。尊ぶところ重くするところはただ仏世尊なり。このゆゑにまさにつねに念仏すべし。第二にもろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊の長養を蒙ることを得たり。われらが法身・智身・大慈悲身、禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんと願ず。また大臣、王の恩寵を蒙りて、つねにその主を念ふがごとし

『銘文』南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。

『正像末和讃』無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

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